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 ゆるやかなひとが云った。
しあわせにおなり、かならずね、ぜったいよ。
それは単純で、哀情に満ちた、やさしい祝福のかたちだった。
はかなげなひとが云った。
お手紙ちょうだいね、きっとよ。
それはささやかなお願いと同時に、ひとを案じる祈りだった。

それはやさしい別れだった。

僕のなかにあるのは乾燥した感情、刻々と降り積もる時間、純粋なる欲望。この生きている容器はそうした無味の拠り所であって、僕以外の人間に対するもの、それは正と負と両方あるけれど、そうした対象への惑溺というものがないのだ。渇望している慈愛と悲哀の情緒。どうか、いつか僕はその波に呑まれてしまいたいのだけど。

さむい、と梶間がちいさく呟いたのだが、それがひどく泣きそうな声音だったので、彼女はすこしおどろきながらもいとおしく思えるその背中にことばを返した。
「じゃあ、シーツにくるまりなさいな。ほら」
寝台のうえ、自分がさきほどまで使っていたシーツを取り出して広げた彼女に、うん、と梶間は言う。だがおもむろに彼女の座っている横の、空いているすきまに脚をのばして寝転がった。シーツにうつ伏せになった背中の、うすい白のシャツに肩甲骨の線を浮かび上がらせているのを彼女は不思議な心持ちで眺めることになった。おとこのからだと肢体、なんと扇情的なことだろう。うすい筋肉と骨の線。彼女はそれまでおとこのからだを知らなかったが、梶間の、服のすきまからみられる頸や鎖骨、捲くられたうでの骨ばった様子になんとも言えない渇きを覚える。うつくしいそのおとこのからだの、すべてをみてみたいと思うのだった。
だから、ほんとうは自分が彼をあたためてあげたいと彼女は望む。だが、彼が求めているのはもっと無機的なつながりであることを彼女は知っていたから、ほんのすこし残念だった。彼女はシーツを彼に被せながら、彼に同情した。
「あんたそういえば何日眠れていないの。だいぶ眠っていないんじゃないの。おんなの子に会わなきゃね」
「前までのは眠れなくなった。あたらしいのを探さないといけないが、めんどう」
まだしばらく寝れなくていい、と梶間は嘆息した。ああ、このどうしようもないおとこ、と彼女は哀しくなった。梶間自身の無関心によって彼はなおいっそう愚かしく、彼がそれに気づいていないふうなのが同時に憐れだった。
この閉ざされた空間で、いまいちばん彼に近いのは彼女だった。このうでも、胸も、脚だって、このからだのそともなかもすべて、いますぐにでも彼を慰めることができるのに、彼がそれをまだ望んでいないことがわかっているから、ひどく残念だった。そしてこのからだがますます恨めしかった。彼が眠れずに哀しんでいる横で、自分は否応なく眠りに引きずり込まれるのである。
「なんだ、寝ろよ」
懸命に睡魔とたたかっていた彼女に対して、彼はやさしかった。
「ああ、いやだ。眠りたくない」
「なぜ」
「そとをみたいの。春を」
「春なんて苦しいだけだよ。春は無情だ」
「ふたりでそとへ出ればだいじょうぶよ。いつか」
いつか、と言って彼女は眠ってしまった。

眠りの森はいまだ閉じたままである。

 「ああ、とっても可愛そう」
 慰めてあげたい、と彼女は想ったのだ。痛みの伴うせつない悦びにふるえて濡れた。いてもたってもいられず、つま先で背のび、彼の薄い唇の端に自分の唇のやわらかさをしっとりと刻んだ。それは彼女の祈りのようで、彼は言いようのない慰めを得たが、そのことがまた彼の自尊心をひそかに傷つけたのだった。だがそれこそを彼女は望んだ。ゆっくりであっても、慰めの棘が彼のひびを侵していくことをなにより願った。美しく高慢な彼のこころ。彼が彼女に対して残酷になればなるほど彼女はとても嬉しかった。だからこそ、彼の唇が激しく自分のそれへと向かい溶けていくと、彼女は願いが叶ったと想う。彼が苛立つだけで、彼女はすでに濡れてとろけそうなほどだった。彼の掴む腕の痛ささえ、恍惚の要素のひとつであった。
 彼女はこのままどうにかなっても良いと想う。だがそれもつかの間の夢であった。彼は彼女をきわめて正確に把握していて、その傷つけられた自尊心は彼女を傷つけようと働いた。舌に酸素が侵入した。それがあまりに唐突だったので、彼女はひどく戸惑ってしまい、途方にくれた。濡れて疼いたこころに与えられた罰のために、彼女は彼をうらめしげに見たが、彼の少し歪んだ微笑に、結局赦してしまった。他の女を想う男を、愛しく想った。
 そのように彼女は彼を愛した。


君の右目、欲しいなあ、ねえ、くれませんか。
少女の青い、青すぎるほどの右目をじっと見ながら神父は願いを舌にのせた。何故と尋ねた少女の右の目尻をすっと指先で撫でながら神父は目を細める。
だって、綺麗なものがとても好きですから。
少女は神父の指の柔らかな感触を楽しみながら、それは素敵なことだわ、と呟く。
ねえ、本当に、くれませんか。

あなたがわたしのものになるのなら、この右目はあなたのものだわ。

少女はそう神父を想いながら、ずっと神父の感触に身を委ねていた。

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